昭和天皇と靖国神社 ー怨恨のあまり、ダブルスタンダードに陥ってしまう人達ー

 さて、今回、反保守な人たちが大喜びしているニュースがあります。
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀(http://www.asahi.com/national/update/0720/TKY200607200188.html)‘
正直、私はこれを見て、最初に、
特に、三国同盟の下りを読んで、
「ああ、やはり昭和天皇陛下を開戦を望んでいなかったのに、開戦してしまった。
(米国との対立を望んでいなかった)」
「という事は、統帥権天皇陛下にあったというのは、正しく字面だけだった。」
「つまり、昭和天皇に戦争責任は一切存在しない。」
こういう感想、つまり昭和天皇は平和主義者で、戦争責任は全く無いという事を改めて確信しました。
ですが、やはりというか、何というか、最近の保守ブームに対して、
半ば、怨恨のようなものをいだいている方々は、
別の意味で大喜びしているようです。*1


民主・小沢代表「昭和天皇は偉い方」 靖国発言メモで
2006年07月20日19時58分
 「昭和天皇は本当に偉い方だったんだなあ。大御心だなあ」。民主党の小沢代表は20日、記者団にこう語った。小沢氏は最近でも「戦死ではない人たちが靖国神社にまつられること自体が間違いだ。天皇も堂々と参拝できるような本来の靖国神社にすべきだ」との持論を繰り返していた。

 超党派の国会議員でつくる「国立追悼施設を考える会」の呼びかけ人でもある民主党鳩山由紀夫幹事長も「A級戦犯合祀(ごうし)が理由で天皇陛下が参拝されていないことが、証拠として示された意義は大きい」と語った。小泉首相に対しては「自分だけの意思で軽々に(参拝する)というのは許されない。この事実を重く受け止めて頂きたい」とくぎを刺した。

 共産党の志位委員長は「『靖国史観』派のシナリオが破綻(はたん)し、参拝を繰り返してきた小泉首相の主張に道理がないことを浮き彫りにするものだ。首相の参拝中止を改めて強く求める」との談話を発表した。社民党又市征治幹事長も「昭和天皇の意思が資料で裏付けられた。戦争の反省と平和の希求という気持ちが表れた言葉だと思う。政府・与党がどう受け止めるのか注視したい」との談話を出した。

http://www.asahi.com/politics/update/0720/010.html

さて、こんな感じです。
最後の共産党靖国史観の崩壊なんて飛躍ですし、
そもそも靖国史観というのもよく分からないのですが、
(例えば、岡崎久彦氏と、渡部昇一氏でも、オレンジ政策の解釈の様に、
歴史認識が異なる点が幾つか存在する。
どっちが靖国史観なのでしょう??)
まあ、保守ブームや、保守ではありませんが、小泉さんに対する怨恨に満ちています。




 そもそも、靖国神社は、宗教機関ですから、
そのあり方について、政治家が干渉すべきではありません。
これは、今回のメモでも揺らぎません。
もっとも、憲法を変えて、天皇陛下の意向があれば、宗教のあり方に干渉できるとでもすれば話はべつですが、
それでも、今回の件に関して言えば、事後法の感はいがめません。




 ですが、一ついえる事は、
この事で、分祀だとか、参拝中止だとか言っている人々は、
天皇陛下の偉大さを認めている点です。
天皇陛下がそう言ってたんだから、こうしろよ。」
と言っているわけですね。
今回の件について、こういう発現をした人は、
ダブルスタンダードにだけは陥らないようにしてほしいものです。



昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀
2006年07月20日11時12分
 昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社A級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
昭和天皇(88年)

昭和天皇の発言を記したメモ
 メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。
 これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿靖国神社宮司を指しているとみられる。
 メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳靖国神社宮司について触れられたとみられる。
 昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。
 昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。
 靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。
    ◇
 《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。
 個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。
    ◇
 靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。
 大きな国際問題になったのは、戦後40年の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
 昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。
 首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。
 自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。
 ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。
    ◇
靖国神社に合祀された東京裁判A級戦犯14人》
【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相)
板垣征四郎(陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)
広田弘毅(首相、外相)
終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相)
小磯国昭(陸軍大将、首相)
白鳥敏夫(駐イタリア大使)
梅津美治郎(陸軍大将)
【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)
【判決前に病死】
松岡洋右(外相)
永野修身(海軍大将)

*1:私自身も、ブームとしての保守の中には、指摘されるべき箇所があるかと思いますが